このブログでは、世界中に愛をワールドメイトとその主宰者である深見東州先生(半田晴久氏)について書いていきたいと思います。
どんな行事に参加される方も、ぜひご理解いただきたいことがあります。
「誠とは形に出して真(しん)となり、形に真がこもって完成する」という神霊界の法則がある、ということです。
そしてお玉串とは、
「神様に捧げるもの」
なのです。
神様に捧げるんだ、という意識をもって納めていただきたいのです。
お玉串を納めるのは、ワールドメイトという組織のためではなく、また、植松先生のためでもなく、深見先生のためでもありません。
自分の誠を証するものとして、「自分に神様への誠がある証拠として」お玉串を納めるのです。
「どうぞわが誠を、神々様が受け取って下さいますように」と祈りながらお玉串を納めるのです。
「どうか天の徳を積むことをお許し下さい」と祈りながら、お玉串を納めるのです。
「許される時が来たなら、私にも神なる奇跡をいただければ有り難いです」と祈りながら、お玉串を納めるのです。
お玉串とは、どこまでもじぶんの誠を極め、神様にその誠を証明し、そして自分の陰徳とさせていただいて、自分自身の心のあり方や自身の信仰の姿勢を見直す、それらのきっかけとなるものだと言えましょう。
ご神徳を買うことはできないのです。お玉串の金額とは現実的な意味での基準ではありますが、実際に捧げることになる誠の深さは、お玉串の金額の10倍、100倍にもできるし、10分の1にしてしまうこともできるのです。
寄付玉串が、いかに料金というものとは違っているか、全くの別物なのかということがお分かりいただけるでしょうか。
支部長がしつこく言うから、とお玉串を出すと、人間信仰になります。
人としての深見先生がおっしゃるから、とお玉串を出すと人間信仰になります。
この1万円を出すと、10倍になって返ってくるから、といってお玉串を出すと、お蔭信仰になります。
神様とは、どんなお金でも、お金はお金として受け取って下さるはずだ、祈りがあろうがなかろうが、金額が大きかろうが小さかろうが、同じお玉串なんだーこれが俺の考え方なんだーというと、観念信仰のほうへずれてしまっているような感じです。
お玉串とは、「神様に捧げるもの」なのです。
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